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業務徘徊でぶらぶらと・・・下福島公園で、およ~とコレが・・・コンクリ柱に「車」? と、ブロック塀の向こうに何かある? あみだ池筋に回ってみると・・・
石畳の参道???
説明板?石碑?・・・狛犬もいます???
石碑には「神跡・福島天満宮」と?
説明板を読むと・・・ああ、そうなんかと納得。クリックすると大きいのが見れます。
なんで、こんなんとか・・・
こんなんがあるのね・・・
前から気になっていたレンガの壁の意味もわかりましたわ。で、さっきの「車」と彫られた脊柱の意義は?
投稿者 路爺@宝塚 時刻 00:59 | 固定リンク Tweet
めちゃくちゃ地元ですやん・・・。
投稿: しょうやん | 2009.06.10 02:18
自動車の祓所…
投稿: 幽黙 | 2009.06.10 06:37
そうなんですよ。。。上之社、中之社、下之社とあって 上と下は現存してます。 多分、敷地の所有は神社にあるんでしょうね。 改めて最初の写真を見たら、煉瓦塀の一部がブロックに なってますね。 きっと、神社の参道でよく見る「車止」でしょうね。 で、「本殿への参道はどこにあったんだろうか?」ってね?
投稿: 路爺 | 2009.06.10 11:18
福島天満宮の獅子舞のページ中段に中之社が写ってますが 瓦礫のまんま。。。けっこう最近まで放置されていたんで すね? http://qtatta.hp.infoseek.co.jp/sisimai.html
投稿: 路爺 | 2009.06.10 12:02
下福島公園は、もとユニチカの工場やったんですね。 『ウィキペディア(Wikipedia)』に載ってますわ。 この煉瓦は、その工場の一部で、空襲の延焼を食い止めた とあります。 ますます、中之社の位置が気になりますね〜 もしかしたら、今のあみだ池筋のど真ん中にあった? いや、福島天満宮のサイトには、中之社は当社の飛び地境内と ありますんで、この駐車場エリアが中之社でしょう??? きっと神殿は川を向いていたはずですからね???
投稿: 路爺 | 2009.06.10 12:34
「車」って時代から考えて自動車より人力車とか馬車だった? 空襲の焼け跡、子供の頃環状線の電車から見えていた、あれかなぁ? 黒こげの煉瓦塀が見えている場所が川の近くにあって、親に「火事?」と聞いたら、「空襲」と言う返事が返ってきました。
投稿: Jun | 2009.06.10 22:14
車杭は、神社のものだったのか、紡績工場のものだったのか・・・ この手の些細な事は、いくら調べてもわからないかも・・・ 環状線から見ていたのは大阪城東の工兵工廠跡かと 長い間、瓦礫のままやったような記憶がありますわ。
投稿: 路爺 | 2009.06.11 00:11
Junさん 横レスすみません~
他の神社なら『下馬』でしょうが… 自動車や人力車なら『下車』でしょうかね??
>大阪城東の工兵工廠跡 私の青春時代は当たり前のように崩れた煉瓦工場が 省線いや環状線の車窓から見えていました。 その中に、ニッセイさんが箱のような建物立てて おねぃさん方が通っていたのを~ 帰宅時には暗い中、怖くなかったのでしょうかね??
投稿: inisieJOLY | 2009.06.11 10:46
下馬、下車、たしかに!! ニッセイやのーてスミセイちゃいました? ニッセイは、おばちゃんで スミセイは、おねーちゃん〜♪ ダーク大阪が、いたるところに残っていた 時代ですなぁ〜
投稿: 路爺 | 2009.06.11 11:21
路爺さま
はじめまして、びんみんと申します。 随分前から道草画日記を拝見していて、ユニークなところに注目されているので、いつも楽しませていただいています。 ありがとうございます。
この下福島公園は、前に見に行ったことがあるのですが、「車」の柱には気付きませんでした。地図で見ると、中之社と大福紡績(大阪福島紡績?)の間には通路があるように見えます。その狭い通路に車が入らないためのものかもなどと思いました。 http://binmin.tea-nifty.com/blog/2008/12/post-6efa.html
投稿: びんみん | 2009.06.16 00:56
びんみんさん、初めましてー こような方をお待ちしておりました!! なるほど、昔の中之社付近は、こうなって いたんですね。 残留する煉瓦壁は神社の境界壁で、その向こうに 路地があった。 アップされている古地図を並べてみると どうも公園になってからの石柱かと思いますね。 公園入口と神社参道の入口が重なっていたようにも? でも、石柱と位置と文字の向きが、合わない??? 新情報は、新たなる「小謎」を提供してくれますね〜?
しかし・・・
貴公のページ、しかと見させていただきました!! いやぁ〜目から鱗ですわ!! おもろい!! 煉瓦の刻印しりませんでしたわ!! それに公園巡り! たしかに今まで由縁を 考えたことなどなく新しい視点ですね こら近所の公園で試してみんとーふふ。。。楽しみが 増えた感じですわ〜♪
投稿: 路爺 | 2009.06.16 13:03
路爺さま、お世話になります。 実は長らくROMさせていただいていたのですが、ようやく思い切って書き込みました。
確かに石柱は方向が合わないですね。
私のブログは非常にムラがあって、日記といいながら日記でないのですが、楽しんでいただけたようで何よりです。 これからもこちらにお邪魔しますので、よろしくお願いします。 これからはもう少し表に出ようと思います。
投稿: びんみん | 2009.06.16 19:22
びんみんさん、こちらこそヨロシクです。 皆で解明しようで、無名の歴史・・・ですね~♪ 貴殿のブログに刺激されて近場の「宝塚末広公園」を 調べてみたら、震災を期に作られた防災公園やったんですね。 遊具とか東屋にシート被せたら緊急避難用の架設住居になるように 設計されているんですね・・・知りませんでしたわ。
投稿: 路爺 | 2009.06.16 22:23
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めちゃくちゃ地元ですやん・・・。
投稿: しょうやん | 2009.06.10 02:18
自動車の祓所…
投稿: 幽黙 | 2009.06.10 06:37
そうなんですよ。。。上之社、中之社、下之社とあって
上と下は現存してます。
多分、敷地の所有は神社にあるんでしょうね。
改めて最初の写真を見たら、煉瓦塀の一部がブロックに
なってますね。
きっと、神社の参道でよく見る「車止」でしょうね。
で、「本殿への参道はどこにあったんだろうか?」ってね?
投稿: 路爺 | 2009.06.10 11:18
福島天満宮の獅子舞のページ中段に中之社が写ってますが
瓦礫のまんま。。。けっこう最近まで放置されていたんで
すね?
http://qtatta.hp.infoseek.co.jp/sisimai.html
投稿: 路爺 | 2009.06.10 12:02
下福島公園は、もとユニチカの工場やったんですね。
『ウィキペディア(Wikipedia)』に載ってますわ。
この煉瓦は、その工場の一部で、空襲の延焼を食い止めた
とあります。
ますます、中之社の位置が気になりますね〜
もしかしたら、今のあみだ池筋のど真ん中にあった?
いや、福島天満宮のサイトには、中之社は当社の飛び地境内と
ありますんで、この駐車場エリアが中之社でしょう???
きっと神殿は川を向いていたはずですからね???
投稿: 路爺 | 2009.06.10 12:34
「車」って時代から考えて自動車より人力車とか馬車だった?
空襲の焼け跡、子供の頃環状線の電車から見えていた、あれかなぁ?
黒こげの煉瓦塀が見えている場所が川の近くにあって、親に「火事?」と聞いたら、「空襲」と言う返事が返ってきました。
投稿: Jun | 2009.06.10 22:14
車杭は、神社のものだったのか、紡績工場のものだったのか・・・
この手の些細な事は、いくら調べてもわからないかも・・・
環状線から見ていたのは大阪城東の工兵工廠跡かと
長い間、瓦礫のままやったような記憶がありますわ。
投稿: 路爺 | 2009.06.11 00:11
Junさん
横レスすみません~
他の神社なら『下馬』でしょうが…
自動車や人力車なら『下車』でしょうかね??
>大阪城東の工兵工廠跡
私の青春時代は当たり前のように崩れた煉瓦工場が
省線いや環状線の車窓から見えていました。
その中に、ニッセイさんが箱のような建物立てて
おねぃさん方が通っていたのを~
帰宅時には暗い中、怖くなかったのでしょうかね??
投稿: inisieJOLY | 2009.06.11 10:46
下馬、下車、たしかに!!
ニッセイやのーてスミセイちゃいました?
ニッセイは、おばちゃんで
スミセイは、おねーちゃん〜♪
ダーク大阪が、いたるところに残っていた
時代ですなぁ〜
投稿: 路爺 | 2009.06.11 11:21
路爺さま
はじめまして、びんみんと申します。
随分前から道草画日記を拝見していて、ユニークなところに注目されているので、いつも楽しませていただいています。
ありがとうございます。
この下福島公園は、前に見に行ったことがあるのですが、「車」の柱には気付きませんでした。地図で見ると、中之社と大福紡績(大阪福島紡績?)の間には通路があるように見えます。その狭い通路に車が入らないためのものかもなどと思いました。
http://binmin.tea-nifty.com/blog/2008/12/post-6efa.html
投稿: びんみん | 2009.06.16 00:56
びんみんさん、初めましてー
こような方をお待ちしておりました!!
なるほど、昔の中之社付近は、こうなって
いたんですね。
残留する煉瓦壁は神社の境界壁で、その向こうに
路地があった。
アップされている古地図を並べてみると
どうも公園になってからの石柱かと思いますね。
公園入口と神社参道の入口が重なっていたようにも?
でも、石柱と位置と文字の向きが、合わない???
新情報は、新たなる「小謎」を提供してくれますね〜?
しかし・・・
貴公のページ、しかと見させていただきました!!
いやぁ〜目から鱗ですわ!! おもろい!!
煉瓦の刻印しりませんでしたわ!!
それに公園巡り! たしかに今まで由縁を
考えたことなどなく新しい視点ですね
こら近所の公園で試してみんとーふふ。。。楽しみが
増えた感じですわ〜♪
投稿: 路爺 | 2009.06.16 13:03
路爺さま、お世話になります。
実は長らくROMさせていただいていたのですが、ようやく思い切って書き込みました。
確かに石柱は方向が合わないですね。
私のブログは非常にムラがあって、日記といいながら日記でないのですが、楽しんでいただけたようで何よりです。
これからもこちらにお邪魔しますので、よろしくお願いします。
これからはもう少し表に出ようと思います。
投稿: びんみん | 2009.06.16 19:22
びんみんさん、こちらこそヨロシクです。
皆で解明しようで、無名の歴史・・・ですね~♪
貴殿のブログに刺激されて近場の「宝塚末広公園」を
調べてみたら、震災を期に作られた防災公園やったんですね。
遊具とか東屋にシート被せたら緊急避難用の架設住居になるように
設計されているんですね・・・知りませんでしたわ。
投稿: 路爺 | 2009.06.16 22:23