現役なのかと。。。
路地横の手漕ぎポンプを見つけるたびに「現役」なのかと探りを入れる・・・錆び具合、壊れ程度、据え付け状況・・・このポンプは、蜘蛛巣の状況から「夏場のみ復帰組」のように見受けられる。
近鉄八尾駅のお地蔵様、お顔も鐘もええ按配に光ってます。日ごろの信心のなせる業。柏原からなんとなく町が抹香くさかったのはこのせいかな?これゆえ、戦勝奉納品がなかったのか・・・御坊の町八尾&その周辺?・・・ん?でも、古路箱は、なんでなかったんやろか?
JR八尾駅すぐ東の渋川神社のご神木たちはでかい!! 昭和22年米軍が空撮した写真から考察するとこの神社は、旧大和川の土手すぐのねきにあった思いますね。その証拠に神社が小高い丘状の上に建っています。このご神木、旧大和川の流れを見ていたんでしょうね。あ、大きさ比較はかも氏です。
先日、旧大和川跡に沿って河内を徘徊してみた。この地は、我が高校の校区で既知なるものが多く、嬉し恥ずかしいな1日でした。よくあったモノは「道しるべ」で、今も昔も人の往来が多い地だからだろうね。おかげでちょっと人疲れ気味。で、全くなかったのが路地常駐アイテム「古路箱」。同じ河内でも奈良街道(今里、御厨、枚岡に至る旧街道)や枚方宿(京街道)にはあったのに・・・なんでだろうか?
山陽網干(今回3度目)〜飾磨をポタってきました。この地域の感想を一言でいうと「神社が、今も昔も元気」ということでしょうか? 大抵の神社のお百度石が、私らの近所のものよりはるかにでかいです。
最後にJR大和郡山駅北側に鎮座される住吉神社を。。。拝殿から覗くとこのような状態。実際もっと暗いので何を書いた絵巻がわからず、自宅にて画像処理してみたら下記のような戦絵巻が浮かび上がってきました。どうも日清、日露戦争を描いた絵のようですが、戦闘シーンが妙にリアルです。
検索してみると同じような絵柄のモノが、あちら、こちらの神社に奉納 されているようです。どうも共通の原画があるようで、さらに調べたら東京日々新聞アーカイブにありましたね。旅順方面敦要塞陥落(東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵/日露戦争のさいの旅順攻撃の図。『東京日々新聞』の第一〇〇〇〇号付録。五姓田芳柳画。)だそうです。
徘徊して思ったのが「この町、大正で時間が止まっている」ということでしょうか? 明治維新時に官軍側についていた他の藩同様、明治の遺構がありません。いきなり大正で、続く戦前昭和がないんですよね。
江戸期の商業商店資産を大正で使い尽くしたんでしょうか・・・続く工業企業化時代到来の戦前昭和において行かれたんでしょうか・・・戦後もなく、とうぜん平成もなく朽ちてゆく町なんでしょうか?
今、この町の価値を再考していかないと、「産業商業復興」という謳い文句で、土建行政の餌食になってゆく予感がします。
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